国民学校1年生の夏 



毎日暑い日が続いて、花、虫、鳥撮りも怠りがちになっています。
そろそろ身辺整理でもしようかと、サイドボードを開けたら
埃をかぶった1冊のスクラップブックが目に入りました。
ページをめくったら、地元紙に寄稿した駄文の切り抜きがありました。
日付を見たら昭和55年8月でした。33年前の原稿です。
少し長めの文章でしたが転記しました。

拙い文章ですが、お付き合いくだされば有難いです。
若い人たちには、今では死語になっているような単語が出てきますがお許し下さい。









国民学校1年生の夏
垂●敏●

 あの日、昭和20年8月15日は確かに暑かった。
 庭に植えられたアオギリには蝉の声が忙しかった。
 くさむらのあちこちではキリギリスの間延びした翅音が、その日の暑さを確かめているようであった。
 庭の片隅にはヒマ(蓖麻=トウゴマの別名)が自分の背丈より高く生茂り、ヒマの間をかきわけて外へ出ると、下肥の臭いが地熱と共にわき上がってきて、田んぼが見渡せた。
 そこではお百姓さんたちが丹精こめて育てた稲が勢いよく青々とした葉を立てて、秋の実りを待っているのであった。

 私たちは昭和20年4月、国民学校初等科1年生として入学した。
 入学と同時に教えられたのは、避難の仕方であった。
 空襲警報のサイレンが鳴ると如何にして早く校庭に集まり、自分の町内の班に入り、上級生の指示に従って下校するかであった。
 既に大牟田では敵機(B29)が来襲し、延命公園の高射砲台から何発もの弾がB29めがけて打ち出されていたが、命中したという話は聞かなかった。
 私たちの登下校はランドセルの外に防空頭巾を背負い、下級生は上級生のいいつけをよく守り、二列縦隊になって進まねばならなかったし、「気ヲツケ!前ニナラエ!」の言葉は入学して間もなく日常化したものだった。
 終戦までの約四ヵ月、私たちの勉強というものは、ただ「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と書かれた国語の教科書の一頁を覚えたに過ぎず、その他に何を教わったのか、全く覚えていない。
 授業が始まると空襲警報のサイレンが鳴り、すぐ校庭に集まって上級生の指導で下校という繰り返しでは、勉強どころではなく、集団生活の訓練であったような気がする。
 今でも時々火災のサイレンが聞こえると、あの頃の空襲警報を思い出す。長く鳴り響くサイレンの音で、私たちは校庭に集まり、急ぎ帰宅するのであった。そうこうするうちにブウンブウンと不気味な爆音がかすかに聞こえてき、やがてはるか上空を銀色に輝く憎っくきB29が編隊で姿を現すのであった。その恐怖感というのは、いつ自分の頭上に爆弾が落とされるかというものであり、それは子供心にも死の恐怖感につながるものであった。
 ゆうれいやお化けが怖くなったのは戦争が終わってからである。その頃の私たちの前にはゆうれいやお化けもどこかへ疎開していなかったのではなかろうか。

 私は大牟田一回目の空襲があったのち、姉と二人で叔母に連れられて山鹿に疎開した。
 さすがにここは大牟田と違い、ひんぱんには空襲警報のサイレンは鳴らず、ある程度のんびりした生活を送ることが出来た。
 大牟田三回目の空襲はここ山鹿でも空襲警報が発令され、防空壕の入り口に立って大牟田の夜空を眺めていた。そして、焼夷弾(しょういだん)が雨のように落とされるのをちょうど花火を見るような気持ちで見ていたのである。自分の家が焼けているのも知らず。
 それから間もなくして、あの日がやってきた。
 暑かった。太陽は頭上にあって屋根を焦がしていた。雲ひとつなかった。
 正午から偉い人の放送があるからといって、その日は早めの昼食をとり、叔母は姉と私を残して緊張した面持ちで近所にラジオを聞きに行った。私たちは不安な気持ちを抑えて叔母の帰りを待った。やがて叔母は目を真っ赤にして帰ってきた。
 戦争が終わったのを知った。
 私はぼんやりした気持ちで蝉が忙しく鳴く声を聞きながら、戦争が終わったというのはどんなことだろうかと考えていた。
 空襲警報のサイレンは鳴らないのだろうか、防空頭巾を被り、じめじめした防空壕に入ってB29が遠ざかるのを今か今かと不安におののきながら待たなくてもいいのだろうか、などと。




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Posted on 2013/08/15 Thu. 11:00 [edit]

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